Broken Rage (2025)
- Shoji Taniguchi
- 2月16日
- 読了時間: 2分
2.7/5.0
北野武が監督・脚本を務め、ビートたけしが主演する60分強の中篇ギャング (ヤクザ) 映画で、前半はシリアスなバイオレンスドラマとして、後半は前半と同じストーリーをシュールなコメディとして撮るという実験的な構造の作品。
鑑賞前に今作の構造のアイデアを知った時には、さすが世界のキタノ、巨匠となった今でも新しい挑戦をするのかと感心した。
構造上は前半と後半の落差があればあるほど面白くなることが間違いないのだけれど、前半のシリアスなパートで惹き込まれる部分が多くなく、その語り直しとなる後半でも反転の面白さを多く感じることが難しかった。
北野監督自身が手掛けてきたヤクザ映画へのセルフオマージュも含めた約30分のショートフィルムとして前半を観た時に、今作は良くも悪くもライトテイストで、一般人が決して見ることのない裏社会の真に迫るような凄みがあまり感じられないというか…
後半のコメディパートについては、昭和〜平成時代の古典的かつ普遍的なギャグの面白さを何度か感じられたものの、さすがに現代では通じにくいのではと感じるシュールな時間もあり、でも突然キレキレな構図反転や劇的 (文字通りの意味で "劇" 的) な転換があったりで、どのような気持ちで観ればいいのか分からずやや困惑してしまった。
俳優として出演している白竜が何度か役を降りて笑ってしまっているシーンでは、その斬新過ぎるテイクの使い方につられ笑いをしてしまったけれど…
北野映画ファンの観客が今作に困惑し、失望する人も少なからず出るであろうことを北野監督が見越して製作したのかは分からないが、監督が自らのブランドイメージを破壊した (Broken) 後に再構築しようとしているのではないか。
コメディアンとしてのビートたけしと、映画監督としての北野武の両方を尊敬してやまない劇団ひとりや鈴木もぐらは、今作に俳優として出演しながら、この作品と監督の挑戦をどのように受け止めているのかを純粋に知りたい。
このように作品を色々と考察したり製作者の隠された真意を無理にでも探索しようとする映画ファンの行為や、製作者を神格化したり酷評したりといったことが起こる映画界の状況そのものすら、北野監督は破壊・再構築したいというか、笑い飛ばしたいのかも知れない。
伝説のクソゲーといわれる「たけしの挑戦状 (ビートたけし監修)」の有名な隠しメッセージ「こんなげーむにまじになっちゃってどうするの」を思い出した。